今日は8月の試作公演の収益の一部から寄付をお渡しに富士山クラブに伺いました。
葛飾北斎の富士山には人々の生活する姿が描かれているものがかなりあります。
人と自然との共存共生が晩年のテーマだったそうですが、江戸の文化の豊かさを改めて感じざるを得ません。
二年前、自己表現の意味が分からなくなって模索していた時に、自己表現自体がアホらしくなりました。 人や社会との繋がりを大切にすることなく、己の欲求に従って表現を追求することの愚かさに気づきました。
そんな折にテレビから目に入り込んできたのは、富士山のゴミの現実でした。
ゴミを拾う人と捨てる人のいたちごっこ。
その現実に前向きに立ち向かっている方々の姿を見て、余計に自分が愚かに思えました。
一個人として、できることから進めたいとの思いから、二年前に自分の企画イベントから可能な時には収益の一部を寄付することを始めました。
そしてゴミ拾いに、まだ一度だけですが行った時の驚きは、説明しがたいものでした。
雨の降る中、かつての富士講の聖地の裏側で、30年前の製造年月日のドレッシングの空き瓶は、誰が一体棄てたのか…。
棄てた方々は今何をしているんだろう…。
孫の顔を見て幸せに生きてたり家族に見守られて死のうとするところだったりするのかな…。
そんなことを考えながら黙々とゴミ拾いしました。
そして現代アートとして美術館にディスプレイされても分からないだろうと思うくらいアートに見える、半分錆びて地中に溶けてしまった灯油缶?を見て、自己表現の本質にある暴力や愚かさを感じました。
いまだに不法投棄は絶えないようだし、樹海といわれる場で人間自身も粗大ゴミになっている…。
それでも前向きにゴミ拾いを続けて来られた方々に、頭が下がります。
そして葛飾北斎が富士山と人を同じ画面に描き続ける表現活動をし、後世に残した裏にある、時空を越えた、自然や人への深い愛情を改めて感じます。
11月の響楽舎でも、収益の一部を寄付いたします。
小さい行為ではあるけれども、地道にできるところから進んでいきたいです。






