一人を助ける行為には、たくさんの知らない他人までも助けることに繋がる可能性が秘められている。
助ける気がない人までも助けてしまえる。
自分が嫌いな人までも助けてしまえる。
自分までも助けてしまえる。
人を助けるという行為は、自分が想う一人だけを助けることに止まらない。
だからもし、どんなに素敵な手助けをしたとしても、一人だけしか助ける気がない、その他の人はどうでもいい、という気持ちならば、その人助けには狭い自己満足と思い上がりと排他性が潜んでいる。
そう思います。
今日はご縁で知り合った整体師さんに体を診てもらいました。
心身共に疲れた知人を助けたくて行ったのですが、ついでに私も診てもらいました。
結局私の体も長年にわたるダンス疲れと冷えが溜っていることがわかりました。
そして72歳?という50代にしか見えない、お肌ツヤツヤ整体師さんとの気さくな楽しいおしゃべりから、体についてたくさんのことを学びました。
そして『あなたたちはこれから先の人生をいかようにもできるのよ』と励まされました。
自分が知人を助けてあげたと思い上がらないためにも、その素敵な言葉を刻んでおきます。



コメント (2)
EI:
一心不乱に誰かだけ助けようとする行為に人間の高潔さがあるわけだから、始めからその他も狙って助けるなど無理でしょー。
一人だけでも助けようと必死になることが結果、いろんな人を救う可能性があるだけで、一挙両得のようなやましい精神が奉仕の心に潜んでいてはダメで、情けは人のためならず、一人の命を救う者が世界を救うという結果論だよね
はなから一人の背後に多くの人を見てはNGで、考え方を間違えれば、一人から感謝されるより多くの人から感謝されたいという潜在意識が芽生えてしまい兼ねない発想かもね
投稿者: EI | 2008年12月27日 04:03
佐和香:
結果論です。最初から不特定多数を助けようとして一人を助けようとは言ってません。うまく伝えられなかったけど、最近思うことあり敢えて書いてみました。
それから、人の一助は結局一助、他人がどんなに手を差し出しても、結局本人に助かりたいという意思がない限りは、助からない。
助けるつもりで差し出した手が、相手にはナイフみたいな不快なもの、自己を否定するものとして受け止められてしまうこともあります。まるでドブに落ちそうな野生の仔猫に人が手を出したら恐れて逃げてしまって余計にドブにはまってしまうような…。
結局は本人が心を開いて初めて、他人の助けは受け入れられるし、思わぬ素敵な展開が起きるし、他人からの助けを感謝できるのでしょうね。
かくいう私もドブ猫な状態に陥ったこともありますが、それでも何としてでも這上がりたいという気持ちは強かったです。結局自力あっての他力でした。
出られるところから出はじめて、気づいたらたくさんの人との触れ合いと頂いた情けが積み重なって、人としても踊り手としても成長し続けています。
これまで人から頂いた助けや情けに感謝していますし、これからも、死ぬまで自ら成長するつもりです。
投稿者: 佐和香 | 2008年12月28日 14:12