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impro / synchro

やっと普段の生活に戻りました〜


普段はトレーニングの日々です。。とっても地味な生活ですが、その積み重ねがダンスを磨いてくれます。


その時に大切なことって、体に耳を傾けることです。

体の声を聴いて、体がやりたいように動かして、即興的にダンスをしてゆくと、身体も気持もすっきりです。


身体が重たい時は重たいなりに、激しく動きたい時はそれなりに、自分を体にゆだねてしまいます。


すると心の中でモヤモヤしていることも、身体を動かすとスカッとします〜。

そして最後にサウナやお風呂に入って、体をケアしてあげると、体って磨かれたみたいに整います〜。



この繰り返しの生活を送っていて、あるときサウナの中で、あれれ〜えぇ、と気づいたのが「縄文土器」でした。



身体表現と土器、シンクロしているように感じます。




火焔土器や水煙土器のようなデザインを作り上げた人、どんな人だったんだろう。

特に私的には、水煙土器を眺めていると、私の体のムーブメントに近いデザインだなあと感じてしまいます。




そういえば、同じように自分のダンスそのものだ、と思った絵に最近出会いました。


アラン・ウエストさんの日本画です。



アランさんの絵には、流れるような線が描かれています。

でもその線は時にまっすぐだったり、渦を巻いていたりします。


先日、スーザン・オズボーンさんのパーティの際にアランさんもいらしていて、スーザンへのプレゼントダンスを見ていただいた後に水煙土器のデザインについてお話をしたところ、うなずきながらお話を聞いてくださり、共感していただけたんだなあと嬉しくなりました。


そして、たまたま同じ会場で展示されていた、アランさんの四季の絵を拝見させていただきました。


アランさんの絵、春夏秋冬、その季節によってその線の形は異なっていました。

それを見ていて「これは私のダンスそのものです!」と叫んでしまいました。



私自身、様々な音楽や音、時には無音の中で踊ります。

が、その時に舞いながら身体が描く線は、その時々によって変わってしまいます。


それは、自分が弱いからなのか、存在感が弱いからなのか、自分という軸がないからなのか、とチェコでも考えていたのですが、そういうことじゃないんだなと、アランさんの絵を見ていて、とても嬉しく思いました。


そこには生きるもののハーモニーが描かれていたのでした。


なんだか、自分を見つめているような絵に出遭えて、本当に、ほっとしました。


上の写真は、去年の6月、アランのさんの絵と、ブルターニュからきたデュオBugel Koarとのコラボレーションの際の写真です。

日本画と、ケルトの歌と、舞踏の組み合わせ。

この時のセッションも本当に楽しく、お客様とも一体化したような、素敵な瞬間がありました。



話が飛んでしまいましたが、縄文のデザインの話に戻ります〜。

現代人は芸術家になるために、美大受験して、芸大とか行くわけですよね。

でも縄文人は行ってないのよね。

あのデザインの力は、表現力はどこから来たんだ???!!!と思います。


そしてただのデザインじゃない。

あそこには生きる思想が、生きる智慧が練り込められてる。

文字がない人が、表現をするということは、伝えたい気持ちがそこにこめられているのだと、感じます。

私自身、だから文字ではなく身体で表現しているのだし。


文字でないからこそ、言葉以前の、身体が奏でる表現で、縄文の人たちに近づいてみたい。

そう思います。



そして、縄文のデザインを見ていると、今年の8月15日に観たガイアシンフォニー第6番の「クジラの歌」も、思い出します。


クジラは人間と同じように、音楽を作っている。

クジラの歌の構造は、人間が作り出す音楽と同じ。

そしてその歌は、ただの鑑賞用ではなく、生きるための歌です。


頭脳が作り出したというよりも、生物を超えた知性や感性の働きが、生きるために、音楽を作っているとしか思えない。



翻って、縄文土器ですが。。

これは単に飾り用の壷、骨董品みたいな壷のような扱いじゃなくって、実際に使っていたものです。


今年の9月に、十日町鉢のお祭りに行ったついでに、十日町の博物館に行ってきました。

そこには、火焔土器があって、いろいろな展示を見てきました。

そのなかで、土器の周りで人が食事をし、宴会をしている再現図がありました。


火焔土器みたいな非常に扱いづらい土器を、わざと煮炊きに使ってた。

皆でキャンプファイヤーみたいに、火の回りを取り囲んで、どんぐりとか、肉とか、魚とか、植物とか、煮込んで食べてた。


そして、その再現図の中には、ミュージシャンとダンサーがいました。


人間だからね、土器があって、火があって、食事があって、音楽があるならば、踊りださないわけには行かなかったんだろうな。


土器と、食事と、音楽と、ダンスは、一体のものだって、私は強く感じています。

こうやって考えてゆくと、縄文人って、なんて感性豊かでアートな生活をしている人たちだったんだろうって思ってしまいます。



どんな音楽だったんだろう。

どんな踊りだったんだろう。


すっっっごく、興味ふかぶかです。


でも、私自身はアカデミックに追及するのは嫌いなので、今の自分の感覚で、踊ってみたいって思います。


私の体の中には、縄文人も、渡来人も入っている。


長野の南の山々に囲まれて、縄文文化を築きげた人。

蝦夷と呼ばれ、戦いに負け、土地を追われ、今でいう東北の方から命からがら長野へ逃げてきた人。

東北へ向かって蝦夷を討伐した側でありながら、政治の争いに負けて、長野へ落ち延びた人。

そんな人すら入っていると、子供の時におじいちゃんから聴いたことがあります。


私の体の中に眠る、私を生み出した人たちが生きた証でもあると感じるからこそ、私の体に耳を傾けて、じっくり創作に向かっていきます。

時代を超えた調和って、時代を超えて作り上げることって、なんだか今、とても大切な気がしてなりません。

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